批判なきロックはロックにあらず:「ぼっち・ざ・ろっく!」批判

原作:はまじあき
あらすじ

小中高と友達ができずぼっちで過ごしてきた後藤ひとり。彼女は中学3年間をギターの練習に費やし、密かにバンドを組む夢を持っていた。そんな中、メンバーの不在に困っていた伊地知虹夏に声をかけられ、彼女は「結束バンド」に加入する。ベースの山田リョウ、ボーカルの喜多郁代とともに彼女のバンドライフが今始まる。

総評

はじめに言うと、このアニメはなかなか面白い。4人のキャラクターがよく立っており、それぞれの掛け合いは見るものの心をくすぐる。後藤ひとりの演出も見事であり、監督の手腕が見事に光った作品であると言えるだろう。作画もすっきりしていて見やすく、特に崩れることもないので、単純なアニメ作品として見た時、この作品は非常によくできたものと言えるだろう。実際、レビューサイトのMALにおいても、スコアは8.78と高く、全体のランキングでは36位に位置していることは、この作品の質の高さを表しているだろう*1

しかし、ガールズバンドものとして「ぼっち・ざ・ろっく」を見ると、本作には大きな問題があると言わざるを得ない。以下において説明するが、それはガールズバンドというものが、どのように定義されるかという問題と関係している。本論では、西洋におけるガールズバンドの意義を元に、多面的な角度からこの作品を批評したいと考える。

ガールズバンド:女性とロック

まず西洋においてロックという音楽は基本的に女性を排除する傾向があった。もちろん、ジャニス・ジョプリンやジョーン・ジェットなどの際立った例外はおり、The Supremesなどのモータウン系の女性歌手はビートルズに影響を与えたことは間違いない*2。しかしながら、エルヴィスやディラン、ビートルズ、クイーンのメンバーが全員白人男性であることにも見られるように、ロックというジャンルそのものが白人男性によって(その大元は黒人音楽やラテン音楽にあったにも関わらず)発展したことは疑いえない。少なくとも70年代までのロックのメインストリームは明らかに白人男性を中心とするものだったのである。

この状況にある種風穴を開けたのがライオット・ガールと呼ばれる運動である。これは70年代半ばに登場したパンク・ミュージックがフェミニズムと結びつくことで発生した運動であり、90年代の初頭のアメリカで始まった。代表的なアーティストとしては"Revolution Girl Style Now!"でデビューしたビキニ・キルや"Cool Schmool"などで知られるブラットモービルが挙げられる。ガールにあてられたgrrrlというスペルが示すように、この運動は社会に対する少女たちのうなり声によって牽引された。

それまで男性の強い影響下にあったロックというスタイルによって、レイプや摂食障害など女性に対して社会が与えた抑圧を赤裸々に歌ったライオット・ガールは、単にロックへの女性の進出という意味だけではなく、女性の解放という意味を強く持っていたのである。

彼女が話せば 革命が聞こえる
彼女のお尻には革命が宿っている
彼女が歩けば 革命がやってくる
彼女のキスには革命の味がする

When she talks, I hear the revolution
In her hips, there's revolution
When she walks, the revolution's coming
In her kiss, I taste the revolution

ビキニ・キル - Rebel Girl

これはライオット・ガールに限らず、あらゆるロック音楽に共通する態度なのであるが、既存の秩序、権力、権威に対する反抗の精神は、まさにロックのアイデンティティーである。その中でもライオット・ガールは、女性への抑圧に対抗し、それまでの女性に対して開かれていないロックシーンそのものへの批判を表現したのである。これこそがガールズバンドの(それがロックを志向する限りにおける)本懐なのであり、精神的な淵源なのである。

そして、現代においても女性に対する抑圧は根強く残っている。セクハラ、パワハラ、管理職における割合の小ささ、未成年に対する性加害など、その根本的な構造は何も変わっていない*3。ガールズバンドが歌うべきテーマはこの世にありと溢れているのである。

フェミニズム

それにも関わらず、ぼっち・ざ・ろっくにおいては、上にあげたような問題は一切出てこない。ぼっち、虹夏、喜多、山田のいずれのキャラも、女性として感じた抑圧を語ることはなく、作中に出てくる抑圧は後藤ひとりの孤独という問題のみに集約されている。もちろん、孤独・ひとりぼっちという問題は、今や社会的な問題ともなっており、それに対する苦しみ・批判を歌詞にするということはしているので、この作品におけるロックが批判精神を全面的に持たないというわけではない。しかし、その歌詞がクローズアップされるのは基本的に1〜2話であり、他の楽曲についての話はほとんどない。楽曲もパンクミュージックというよりは、むしろポップパンク的なオルタナティブ、腐れ邦ロックの感さえある。

そもそも女性のみで構成されるバンドがロックをやるということの困難が全く現れていないのも問題である。いちおう喜多郁代というキャラクターのギターへの無知という形で、ロックという音楽そのものからの女性の疎外を描いていないとは言えないが、いまだに男性社会である日本のロックシーンにおいてガールズバンドが打って出るという挑戦を描くことはできなかったのだろうか。喜多の友達が、ひとりたちのような音楽は聞かず、ヒップホップなどを聞いているという描写があったように思うが、おそらくそれがロックというジャンルと女性の隔離を描いた唯一のシーンであったようにも思われる。

「ぼっち・ざ・ろっく」におけるフェミニズムの不在は、おそらく日本のアニメ全体に通底する特徴ではないだろうか。それは社会的な批判の欠如という点である。美少女というキャラクターがあくまで愛玩の対象とされ、政治的な言説を持たない無垢な存在にされるという傾向である。ロックをテーマとしたアニメで、このような態度が残ることは非常に残念である。

受動性の肯定

虹夏に連れ出されるぼっち(第1話)

既存の社会の枠組みに対して挑戦するという態度が欠如していることは、この作品のストーリーにも大きな欠陥を及ぼしている。そもそも、この作品の大きなテーマは、陰キャの美少女である後藤ひとりが、バンド活動を通して、人間的な成長を果たすことにあるはずだ。そして、どのような性質が陰キャ陰キャたらしめるかというと、それは受動性である。自分からは動こうとせず、ひたすら誰かが話しかけ、自分を理想へと引っ張ってくれる。いつまでも、そのように考えるからこそ、自我や主体性というものが成長せず、救いがないのである。実際、後藤ひとりの中学生までの行動も、自分からは人に関わろうとしないくせに、机にCDを並べたり、ギターを持ち込むことで、同好の士に注目してもらうとするものであった。かような受動的態度は、従属的な個人を生み出し、自分で自分の道を決断する主体的な個人を生み出す上での障害である。人間としての成熟において、受動性は克服されなければならないのである。

しかしながら、作中において後藤ひとりは何ら行動を変えることなく、虹夏に発見してもらい、その受け身な態度のままバンド活動に参加する。後藤ひとりにおける革命的な変化は彼女の内的な動機によって達成されたのではなく、虹夏という外部の力によって達成されたのである。果たしてこれは成長なのであろうか。机につっぷして受動的な態度をとっていれば、可愛い美少女が話しかけてくれると思っている陰キャ男子の思考そのものである。幸い偶然にもその陰キャ男子に美少女が話しかけてくれ、恋愛に発展したとして、それは成長と言えるのであろうか。根本的な心性において全く何らの変化が齎されないまま、後藤ひとりのバンド生活は始まるのである。

はっきり言って受動的な態度は罪である。それは成長とともに克服されなければならない。ひとりは自分の現状を嘆くのであるが、そのような態度は主体的な決断の末にそうなった人間のみに認められるのである。しかしながら、この受け身の態度は現実のアニメファンの間にも広く見られるものであろう。それだからこそ、この現状はとても良い批判のテーマであり、作品の軸にもなり得るものであった。しかし、この作品にはそもそも批判するという精神が少ないので、後藤ひとりの孤独という問題は後藤ひとり個人の問題に還元され、解決されるべき社会の病理としては意識されない。ゆえに個人の救済は偶然の事象で足り、虹夏との出会いによって全てが解決するのである。

このような受動的態度に対する無批判は、それを見るオタクたちにも負の影響を与えるだろう。じっとしていればいつかヒロインが自分を助けてくれる、自分が何か変わる必要はない、自分から動く必要はない、そんな思考態度に安心感をもたらす。それは同時に、自分たちが批判の対象にされることへの反感にも繋がる。オタク受けを狙うが故に、作品が無批判かつ凡庸なものになるのは、日本アニメの病理である。

男性の徹底的な排除

父親の顔は隠される

「ぼっち・ざ・ろっく!」がオタクに対して徹底的に優しい世界を描くことの影響は、作品において男性キャラが徹底的に排除されることにおいて頂点に達する。もちろん、ひとりの父親や文化祭における不良など、男キャラが全く排除されているというわけではない。しかし、ひとりの父親の顔は詳細に描かれず、不良キャラはあくまでコメディタッチのネタキャラとしてのみ登場する。作品のあらゆるメインキャラは女性であり、男の陰を感じさせないことにエネルギーが注がれている。本来、女性の解放を訴えるはずのガールズ・ロックが、女性の自由な性を抑圧するどころか、貞操や清純を求める構造を強化するという逆説がここに発生するのである。

このような男性の徹底的な排除がもたらすものは何か。同性愛の倒錯的形態である。すなわち、LGBTを現実に存在する正常な関係と捉えるのではなく、架空上の愛玩すべきものとして真面目に取り合わない態度である。女性キャラ同士がカップリングとして結び付けられ、キャラ同士の掛け合いを描く二次創作には枚挙にいとまがない。そこでは、ぼっちと喜多の関係やぼっちと虹夏の関係は、あくまで男性の視聴者によって消費され、それはLGBT(特にレズビアン)の文脈では受け取られない。百合という言葉が示すように、女性同士の関係は清純なものとして扱われ、愛玩の対象となる。そのような関係はあくまで架空のもの、創作上のものとされ、現実に存在するレズビアンに思いを馳せることはない。同性カップルに対する言われのない差別が作中もしくは二次創作の中で描かれることはなく、あくまで「そういう世界」として描かれる。同性関係は抽象化され理想化された像としてのみ、受容されるのである。

まとめ

以上に示したように、「ぼっち・ざ・ろっく!」が抱える病理は三つある。(1)批判的精神の欠如、(2)受動的態度の全面的肯定、(3)同性愛の倒錯的形態である。これらは結局のところ、(1)の批判的精神の欠如というところに繋がるのだろう。受動性が肯定されるのも、主体性獲得の精神がないからであろうし、同性愛が愛玩されるのも、それを社会における大きな問題と捉えることがないからである。この作品の一番の問題点は、ロックをテーマとしているのにもかかわらず、その内容は何もかもがロックではないことである。ロックそのものの性質の変化を暗示しているのか、それともオタクの需要に適合した結果なのか。そもそも、初めからロックなど興味がないのか。日本アニメの欠点を煮詰めた本作が、大変な人気を集めたのは本当に良いことだったのだろうか。

評価:60点

 

*1:MyAnimeList, 2022, https://myanimelist.net/anime/47917/Bocchi_the_Rock

*2:Crandall, B. 2014. https://www.cbsnews.com/news/motown-really-had-a-hold-on-the-beatles/

*3:2023年における管理職に占める女性の割合は12.7%

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ブログの趣旨

本ブログは(1)アニメおよびアニメ映画の公正なる批評と(2)アニメ史の体系的叙述を目的とするものである。そこで、日々鑑賞したアニメの記録を行うと同時に、現代に至るまでの長いアニメの歴史を整理することを具体的内容としたい。

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本ブログはこのような人々の願いを叶えるために生まれたものである。いやしくも万人の見るべき古今東西の真に古典的価値あるアニメを、きわめて簡易なる形式において批評し、あらゆるアニメ愛好者に必要たる知識の向上、批判的視点の原理を提供したいと思う。全体公開の形式を取るため、アニメ愛好者は読みたい時に読みたいものを読むことができる。読み込みの速度や記事の分かりやすさを重視するため、外観は顧みないものの内容については厳選最も力を尽くし、各アニメの特色を反映させたものにしたいと思う。アニメを愛し、アニメを好む者が自ら進んでこの考えに参加し、自身の考えを寄せることは私の心より熱望するところである。その性質上、時間的には困難の大きい試みにあえてあたろうとする志を諒として、その達成のためにアニメ愛好者とのうるわしき共同を期待する。